僕と鱸③

その当時の琵琶湖のバスは気持ちいいくらい愛想のいい魚だった。梅雨時期には見えバスがガンガン食ってきたし、ひどい時(?)は岸辺でキャッチボールをしている時、置き竿に40cmくらいの大物がヒットしたりした。馬鹿な学生だったゆえ、ヨットハーバーに夜な夜な忍び込んだことも。初めて買ったバスロッドと手持ちのスピニングリールで50cmほどの大物をゲットしたこともあった。

そして大学1回生の秋、僕は学園祭の実行委員に選出され、多忙な日々を送った。目玉は当時人気絶頂だったバンド「リンドバーグ」のライブ。リンドバーグを呼ぶための準備、さらにはいろんな雑用。ちょっと釣りどころではなかった。そして11月初旬にあった学園祭も無事に終了。僕は少しばかり学校を休んで1週間ほど帰省した。地元の友人と飲みに行ったりして遊んでいたのだが、ふとスズキのことを思い出した。ルアー釣りの経験値は琵琶湖で積んだ。これが故郷の日高川で生かせないのかと。

琵琶湖ではデイゲームよりナイトゲームの方が大型が釣れた。小学生の頃と違って大学生は“深夜徘徊”ができるということ、さらに“実家の車を乗り回せる”という強みがある。琵琶湖で使っていたラパラCD-7を持って、夕方に日高川下流域に出掛けた。ポイントは野口橋という橋の下。この頃には一端の知識もあり、スズキは落ち鮎を食べに川をさかのぼって来るということを知っていたからだ。まずは野口橋の上から日高川を俯瞰する。すると浅瀬に黒く帯のようなものが続いている。「何だろう?」目を凝らしていると黒い帯が、たまにキラキラと光っている。

「魚の群れや!」。そう黒い帯の正体は、落ち鮎だった。当時の日高川は今とは比較できないほど落ち鮎の量は多かった。そしてその群れに向かって猛然と大きな魚がアタックしていた。当時は分からなかったが、これはチヌだったと思う。長く伸びる落ち鮎の群れ。そしてそれに襲いかかるチヌ。魂を抜かれたように何時間でも見てられる気がした。誰もいない日高川。そうこうしているうちに辺りに夜のとばりが降りてきた。視界が効かなくなってきた時、バコッという捕食音が遠くで響き出した。

「スズキがいる!」

小学生の頃、ベタ凪のデイゲームでホゲ続けた記憶がよみがえる。今回は流れのあるナイトゲーム。状況は180度真逆ということもあるが、釣れる気がしなかったあの頃とは違い、この時は、「魚はルアーで釣れる」という確固たる信念があった。「絶対に釣ってやる」というモチベーション。これが何より大きかった。

エントリーしたのは左岸側。野口橋の橋げたの下流側に陣取った。半信半疑ではなく、たぶん食うと信じてキャストした1投目! 先ほど落ち鮎が溜まっていた浅瀬から深場に落ちるあたりで、ゴツンというこれまで経験したことがなかった大きなアタリが手元に伝わった。そしてそれと同時に豪快なエラ洗い。月夜だったか闇夜だったかは覚えていない。ただ、橋の上からの水銀灯に照らされた魚体がきれいに映えた。この頃の野口橋下といえばわりと流れがきつい場所であり、どんどんと走られた。止まらない。これ以上、走って下るのは無理という場所まで引きずられた。心臓がバクバクなっているのはもちろん走ったからではなく、初めてのスズキとのコンタクトからだ。足も震え、後は寄ってきてくれるのを祈るしかなかった。

ファイト時間はおそらく5分ほどだったと思うが、体感的には30分ほどと思えた。そして、なんとか流れに逆らって寄せてきた魚体を見て震えた。バスではハンドランディングは当たり前だったのだが、これをハンドランディングできるのか。やるしかない。大きな口に親指を突っ込んだ時、口の中のフックが指に刺さりそうになった。しかし離すわけにもいかず、強引にずり上げた。

記録、マルスズキ83cm。

初スズキは落ち鮎パターンでのランカーだった。CD-7は丸飲みにされていた。今思えば、丸飲みにされていたから獲れたのだと思う。その場にへたり込んだ。しばらく明かりに照らし出された堂々たる体躯をぼーっと眺め続けた。小学生の頃から憧れ続けたフッコ、いや、スズキを手にすることができたのだ。なんという格好良さ、そして大きな魚だ。両親をビックリさせてやろうとこの初物をキープすることにした。そしてこの日、この魚をきっかけに3匹も釣ることができた。そしてその全てが75cmオーバーだった。

その後、この休暇中に数本のスズキを追加することができた。いずれも70cmオーバーの良型だった。中には水深50cmあるなしといったシャローエリアで水面を割って食ってきたものもあった。小型のものは1匹もいなかった。それもそのはず。この当時、たまにスレで掛かってくる落ち鮎のサイズは、すべて25cmほどの大きさだったと記憶している。(続く)